長崎検番の歴史 – 長崎検番
長崎検番の歴史

長崎花柳界の

歴史

長崎の街に芸妓衆(げいこし)が現れるようになったのは、江戸時代中期ころとされています。当時、丸山の遊女がそのような役割を担っていたところ、大阪から訪ねてきた旅芸妓に刺激を受け、座敷に出て琴を奏でたり、三味線を弾いたりしながら座を助ける女性が現れるようになり、長崎花柳界の基礎が築かれました。
明治時代になり、芸妓衆は検番組織を確立するようになりました。芸妓を抱える置屋と料理屋の中間に立って、双方の調整を図る役割を務めてきました。
昭和初期には、検番組織も最盛期を迎え、長崎丸山には丸山東検番、丸山南検番が、市街地には長崎町検番、稲佐、出雲町、戸町が存在し、数百名もの芸妓が在籍するようになりました。
特に代表的であったのは、丸山東検番と長崎町検番で、それぞれ切磋琢磨して技を磨き、芸を競い合い、数々の名妓が生まれてきました。
昭和30年代半ばの初弾きの様子。戦後、最もにぎわいを見せた時期で、多くの芸妓が芸を競い合っていた。
(写真提供/NBC長崎放送)
第二次世界大戦後は、検番組織の縮小が続いてしまいましたが、残った2軒の検番を中心に長崎芸能会が設立され、約100名の芸妓が活躍するまでになりました。
昭和40年代の高度経済成長期を経て、長崎では昭和50年代はじめになると、置屋が廃止され、長崎花柳界は縮小傾向となりました。このころ、長崎芸能会は長崎検番に改称し、芸妓の手配・送迎・花代の精算を行う、現在の事務所のかたちをなすようになりました。
平成の時代に入り、減少しつつあった芸妓衆にも新人芸妓がデビューするなどし、現在では16名の芸妓が長崎花柳界を支える存在として活躍しています。
九州では、各地に存在した検番も、現在では福岡の博多券番と長崎検番だけと貴重な存在になりましたが、伝統を受け継ぐ担い手として、日々稽古に励んでいます。
長崎花柳界には、その名を一躍有名にした名妓として『愛八』がいる。
明治24年(1891年)に17歳でデビューした愛八は、長崎東検番に所属し、芸熱心でたちまち売れっ子になりました。
竹を割ったような性分で、貧しい学生に財布ぐるみで投げ出してやるような温かい心を持ち、多くの人から慕われました。
昭和5年(1930年)、ビクターレコードから誘いがあり、上京。翌年2月に愛八が声を吹き込み発売されたのが『ぶらぶら節』です。
『ぶらぶら節』は空前の大ヒットを遂げ、長崎花柳界の発展に大きく寄与しました。